ペットは本当に幸せなのか?飼うことの責任について本気で考えてみる
突然ですが、今まで生きてきた中で「動物を飼ってみたい」と思ったことが一度もない人っていますか?
いや、絶対にいないと思うんですよね。小さいころから思い返せば、誰しも必ず一度は動物を飼ってみたいと思ったことがあるはず。
でも、大きくなるにつれて「動物を飼うことの責任の重さ」に気付き、ペットの幸せを思うと私じゃ無理・・・と、それを諦めちゃう人もたくさんいると思います。
人間に飼われるペットって本当に幸せなんでしょうか?そもそも、ペットを飼うことの責任ってなんでしょうか?
今回は、ちょっと難しいけどそんなお話を書いてみます。
ただ、今回の記事は、全て私の主観によって書きますので、多少キツイ言い回しがあったり、読んでて気分を悪くされる方もいるかもしれませんのであしからず。
ではさっそく。
私が思う「ペットを飼うことの責任」について
私が思う一番の責任とは、飼い主の立場として出来る限り幸せにしてあげることだと思っています。
例えば命に関して、そのペットの平均寿命まではしっかりと育ててあげたいと思うし、食に関しては、健康に育つ必要量を毎日欠かさず与えてあげたいと思います。もちろん、遊びや運動に関しても、同じです。
つまり、私たちが普通に暮らしているのとほぼ同じ環境を与えてあげられれば、それがペットに対して一番ではないかと思うわけです。
ペットとは根本的に分かり合えないのが前提
ペットを飼っている人にこんなこと言うと、ものすごく角が立つことは百も承知なんですが、私の中には、あくまでこれが前提にあるんです。
ペットに対して飼い主がしてあげられることの中で最も良いことっていうのは、ペットの望むがままにしてあげることのはずなんです。つまり、ペットが食べたいものを食べさせてあげ、遊びたいときに遊ばせてあげ、寝たいときに寝かせてあげ、行きたい場所に行かせてあげる。とにかく、私たち人間と同じように、すべての行動はペット自身が主体となってやらせてあげなければ、本来の意味でペットの意思を尊重することにはなり得ないわけです。
だからこそ、上記に書いたように「私たちが普通に暮らしているのとほぼ同じ環境を与えてあげられれば、それがペットに対して一番ではないかと思うわけです」になるんです。
でも、これって現実には不可能ですよね。
食べたいと思ったものが食べ物じゃない時だってあるだろうし、そもそも食べ過ぎている時だってあります。遊びたい時に飼い主が仕事などでいない、なんてことだってザラにあるだろうし、そもそもペット自身は遊びたくないのに、飼い主の都合で無理やり遊ばせちゃってるかもしれません。
つまり、何が言いたいのかというと、ペットの自由を尊重してあげることがペットに対して一番の幸せだと分かっていても、それを成し遂げることは「人間と動物」の関係上、意思疎通が完璧に出来ないため不可能である。ということ。
私の考え方は最初から矛盾しているってわけです。
ペットと飼い主の関係は飼い主が主体とならざるを得ない
だから、こういうことなんです。飼い主がどうしても主体とならざるを得ないんです。
この考え方って、はじめはうまく飲み込めないんですよ。言い回し的にどうしても「ペットを服従させる」ような意味合いが含まれますからね。でも、正直に言ってしまえば、少なからずそれで正解なんだと思うんです。
「人間が動物を飼う」という時点で、すでにその動物のいくつかの自由を奪っていますからね。傲慢な飼い主って、このことを認めないんですよ。逆に、このことを意識しすぎると、動物を飼うことなんて出来なくなっちゃいます。
ペットは家族じゃないんですよ。私はペットと家族にはなれないんです。その資格がないんですよ、飼ってしまってますから。
それでいて最善策を取ろうじゃないか
でも、それでいいんです。だからって、ペットを幸せに出来ないってわけじゃない。
ペットを飼うことに対する「負の部分」を認めたうえで、ペットと一緒に幸せになる道を選ぶことだって可能なはずです。
ペットを飼っていれば「飼い主の都合を押し付けなければならない時」が、必ず訪れると思います。そんな時は、それでいいんですよ。可哀そうかもしれないけれど、それが最善策なんです。そこで、飼い主が考え方を曲げる必要はない。飼い主が一番だと思える方法ならば、それが結果的にペットにとっても一番の選択になるはずなんです。
たとえば、病気になった時の治療方針の選択、引っ越しなどでやむを得ず飼えなくなってしまった時の選択など、ペットの命に対しての選択は、飼い主の負う責任の中でも一番重いものですが、これだって、ペットの自由にしてあげることがあなたに出来ますか?
いや、出来ない。ペットの考え方が分からない以上、それは100%不可能なんです。飼い主が主体になって決める他ないんですよ。
飼い主とペット、お互いが良い方向へと向かえる最善の選択を、飼い主が決めて飼い主が実行するしかないんです。
これこそが、ペットを飼うことの責任だと思うんです。
結論:ペットを飼うことの責任とは、すべての選択をすることの責任である。
飼い主が全てを選択しなければならないのなら、それこそが飼い主の責任です。
病気で苦しむペットを延命治療するのかどうか。手術すれば治る病気に対して、術後の痛みに耐えることを強要してまで手術をさせるのかどうか、嫌がる服を着せるのかどうか、狭いケージに入れるのかどうか。もっと細かいことまで言えば、食べてるエサが本当に美味しいのかどうか、っていうかそもそも一緒にいることが幸せなのかどうか。
まだまだたくさんの選択があるかと思いますが、そのすべては飼い主がペットに対して「良い」と判断した選択に過ぎません。ペットが主体となって選択しているわけじゃない。だからこそ、その責任を飼い主が負うんです。
ペットがあなたに飼われることで幸せを感じれるのかどうか、その責任は飼い主のひとつひとつの選択が背負っているんですよ。だからこそ、私はペットに対するすべての選択を、ひとつひとつしっかり考え抜いてから決断していきたいと思います。そして、その選択は、誰に何と言われようとも、私と私のペットに対しては最善の選択なんだと思うようにしています。
以上が、私のペットに対する責任の考え方です。
飼い主がペットのことを思って考え抜いた決断は、その飼い主とペットにとっていつも最善であるべきなんです。だから、誰に何と言われようとも、それは正しいんですよ。この責任だけ負う覚悟さえあれば、誰でもペットを飼う権利はあるし、その人に飼われたペットは幸せなんです。
あとがき
ただしこれ、ペットの意思が分からない以上、答え合わせが出来ないんですよね。飼い主の決断が、ペットを幸せにしているかどうかの答えは、飼い主には一生分からないままなんです。ペットと会話なんて出来ないですからね。
でも、答えなんて分からなくてもいいんですよ。ペットを飼うということは、ある意味それだけで人間のエゴだということなんですから。
動物をペットとして飼うこと。人間のエゴもまた、飼い主の責任なのかもしれません。
なんだかものすごく難しい話になっちゃいましたけど、みなさんも一度考えてみてはどうでしょうか?
以上、うめるびでした。